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博打打ち哀歌

番外編・シャブの街、西成今昔A

明治二十一年(1888年)、長井長義博士が麻黄の成分であるエフェドリンを研究中、今日の覚醒剤を発見。日本が第一次世界大戦に突入するや、戦争の恐怖を克服するためや睡眠をとらずに働けることから、国が覚醒剤を“元気の素”として勧め、大量に製造した。つまり、戦争中の「シャブの売人」はなんと国だったわけである。

敗戦。
覚醒剤は、街に流れた。そして年配者なら懐かしい「ヒロポン」「デコポン」などの商品名で大ヒット。「ヒロポン」を打てば、つらいことも肉体の疲労も忘れ、馬車馬のごとく働けることから、焼跡闇市で暮らす者たちが飛びついた。しかしこの「ヒロポン」には強烈な副作用があった。「ヒロポン」が切れると、人によって症状は異なるが、被害妄想を生じ、見境いなく暴行や殺傷に及ぶのである。それを当時は「ポン中」-ヒロポン中毒-と読んだが、なにせ市販の薬として認められているのだから、その「ポン中」が急増した。

さすがの政府も慌てて、昭和二十六年(1951年)に覚醒剤取締法を施行し、「ヒロポン」等を発売禁止とした。だが、急にやめろと言われても常習者には無理というもの。禁止となって逆に「ポン中」の数が増え、昭和二十九年(1954年)には検挙者数約5万5千人、中毒者は約50万人という、第一次覚醒剤乱用期となった。

以降、罰則の強化などにより覚醒剤は下火となるが、今度は国に代わりヤクザが元締めとなったのだ。どこのヤクザ組織も、表向きは薬物(覚醒剤)の扱いを禁止しているが、実際は、薬物が今日までヤクザの主たる資金源であることは統計上でも明らか。しかも60年代以降、覚醒剤の生産地を…

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